SSブログ
-| 2014年10月 |2014年11月 ブログトップ

古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府) [近畿]

2014年10月12日
2014年10月から2015年3月にかけて3回ほどこの”秦氏”ゆかりの地を巡って来たので、ここに記録する。


2014-10-12_0035.JPG広隆寺 京都府京都市右京区太秦蜂岡町32

太秦交差点の角にある”聖徳太子”を本尊とする寺で、開祖は”秦河勝”。正に秦氏の氏寺といえる。

創建時は住所にもある「蜂岡寺」と云ったようだが、その後「広隆寺」となっている。



2014-10-12_0031.JPG境内にある「太秦殿」に簡単な解説が書かれていた。「往古より秦氏を祭祀せる神社なり 本尊は秦河勝公 後に漢織女、呉織女を合祀す 天保十二年十二月再建す 百済国の弓月君百二十県の民を率いて帰化し其の子孫河勝に至りて地を山城北部に賜い葛野に居住し土地を開拓し、養蚕機織の業に従い之を奨励した。後人其の徳を讃へ神と崇め太秦明神と称した。」


2014-10-12_0026.JPG


2014-10-12_0029.JPG

 


 

2014-10-12_0040.JPG

<木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)>京都府京都市右京区太秦森ケ東町50



2014-10-12_0043.JPG同社を訪れた10月12日は祭りの日に当たっていたようだ。神社の付近や境内には揃いの法被を着た人々が大勢いて、神輿も担がれていた。



2014-10-12_0039.JPG同社の”由緒(ゆいしょ)”については左の写真を参照戴きたいが、特に同社の主祭神四柱中「天之御中主神」を祀っていると書かれている。この「天之御中主神」を主祭神として祀っている神社は全国でも少ない貴重な神社と思われた。

2016-06-01_0079.jpg当社の目玉とも言える「蚕ノ社(かいこのやしろ)」は、上の「由緒」でも記載されているように本殿右側にあるとなっていた。「蚕養神社」が「蚕ノ社」である。(この写真は2016年6月1日に撮影)




2014-10-12_0047.JPG
2016-06-01_0077.jpgまた”由緒”の最後三柱鳥居の項の最後に「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている」と書かれているが、写真のように普通の鳥居とは全く異なった形をしている。この神社最大の謎ともいえる。ケン・ジョセフ/シニア&ジュニア著「(隠された)十字架の国・日本」では「関西大学元教授 池田 栄氏の説として、”この三柱鳥居は、秦氏の信奉していた古代基督教の三位一体信仰の象徴であろう”と述べ」たとしている。本書では”秦氏”は「景教徒」であったとのスタンスで書かれているのである。(上の三柱鳥居の写真(右)は2016年6月1日に撮影)



※当記事は別ブログ「雑記帳」で2015年10月12日に記載したものを移動しました。 


はじめに

2020年8月29日

当ブログを記載するに当たり、基本的な考え方などをまとめておくのが適当と思い付き、遅ればせながらここに記載させて頂きます。尚、一部の記載について編集し直した部分があることをお断りしておきます。

古代(紀元3世紀頃)、朝鮮半島より大挙して日本に渡来した、記録に残る渡来人としては最大数を誇るとされる”秦氏(はたし、はたうじ、はだし等の読みがある)”は山背国(やましろのくに;現在の京都府南部)を中心に活動したとされますが、その一族は関東から九州まで広く分布したとされます。現在残る「秦」「畑」「畠」「波多」などの字が付く地名や苗字は”秦氏”ゆかりの地や末裔とも言われています。
秦氏は、他の渡来系氏族が朝廷内で活躍する中、殆ど朝廷内での活動を行なわず、専ら在野での活動に専念したといわれています。”機織”、”醸造”、”灌漑”、”農耕”などその持てる技術により「生産」を行なう一方、生産された”産物”で”商業活動”を盛んに行ない、財力を高め、側面からの朝廷援護を行なったとされます。それまで奈良の平城京が都であったのを、山背国(京都)の平安京に遷都したその大きな援助も秦氏によるものと言われています。
多くの秦氏一族が在野で活動している中、記録上最も朝廷内で活躍した人物が「秦河勝(はたのかわかつ)」でした。彼は”聖徳太子(しょうとくたいし)”の右腕として国内はもとより、外交でも活躍しました。「秦河勝」広隆寺(こうりゅうじ)(京都市太秦)を建立し、その宝物殿には河勝の木像もあます。
秦氏については謎も多く、渡来人でありながら自らの信仰(宗教)を先住民に押付けることなく、寧ろ先住民の信仰を保護し、それに溶け込むような形をとったとされています。京都市西京区嵐山宮町にある「松尾大社(まつのおたいしゃ)」や京都市伏見区深草にある「伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)」、「上賀茂神社(かみがもじんじゃ;正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ))」「下鴨神社(しもがもじんじゃ;正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ))」などを奉斎していましたが、上下の賀茂神社については、後に奉斎を”鴨氏”に譲っているといわれています。

また、第2回記載2016年3月5日)の菟足神社(うたりじんじゃ)で触れている通り、(中国)の始皇帝の命を受け、約3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を乗せた大船団で東海の三神山(蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう))にあるとされる仙薬(不老不死の薬)を探しに東渡したとされる徐福一行は、秦氏と同義或いは秦氏に含まれるとも言われています。

当ブログでは「徐福は秦氏に含まれる」という解釈の元で「徐福ゆかりの地」も記して行こうと考えています。

何れにしても秦氏徐福も諸説あり虚実交々の状態ですが、真偽を見極める術もなく、またその必要もないと思われることから”ゆかりの地”への訪問をして行きたいと考えています。

nice!(0)  コメント(0) 

-|2014年10月 |2014年11月 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。