古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府)4 [近畿]
当神社は秦河勝が広隆寺を造営した際にこの地のケヤキの大木を用いたため、そのお礼として社を設けたのがはじまりと伝えられている(京都府HPより)そうで、境内には立派な大杉の木が生えている他、周辺にも良く育った杉の木が生えていた。
当神社の祭神は大山住尊(おおやまずみのみこと)とし、その実は住吉大明神(すみよしだいみょうじん)と解説板に書かれているが、祭神を仲哀天皇と神功皇后とするネット情報もある。当神社の解説板には文責が明示されていないため、氏子の誰かが書いたものともとれるが、ここでは解説を正式なものと解釈する。
古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府)3 [近畿]
2016年6月1日
<伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)>京都府京都市伏見区深草薮之内町68番地
当大社はJR奈良線「稲荷駅」からが近い。駅の目の前が大社となるのである。しかし私は例によってマイカーで向かった。当大社の駐車場は大社のすぐ脇にあるが、平日(この日は水曜日)でも駐車場に入るのに渋滞が起こる状況で、時間帯などを考慮して向かった方が良いように思われた。
当大社が秦氏ゆかりの地というのは「知る人ぞ知る」という感じかも知れない。かく言う私も秦氏に興味を持って色々調べる中で初めて知った訳で、非常にお恥ずかしい次第である。
さて、伏見稲荷大社のHPによれば、欽明天皇(きんめいてんのう)の夢で「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」ということだったため、使者を遣わして探したところ、山背国紀伊郡深草里に秦大津父がいたため彼を今でいう大蔵省の重席に任じた。
稲荷大神は秦伊呂巨(具)(はたのいろこ(ぐ))によって和銅四年(711)に鎮座されたときしている。
元々、山背国(やましろのくに) には秦氏が多く住んでいたこともあり、秦大津父のような伝承も生まれたのではないかと思われる。
伏見稲荷大社の中でもかなり有名で、よくTVのバックにも使われる千本鳥居がこれである。
<葛野大堰(かどのおおい)>京都市西京区渡月橋上流
京都・嵐山の渡月橋(とげつきょう)は観光名所として有名だが、橋のすぐ上流側に階段状の堰(せき)があるのを見たことのある方もいると思う。これが実は秦氏が築いた葛野大堰と呼ばれる治水工事の跡である。
当地へもマイカーで訪問。要は渡月橋を目指していくことになるので、問題は何処に車を止めるかであるが、何とか嵐山の商店街のパキングに止めることがで来た。
秦氏が築いた葛野大堰自体は既に失われているが、今も川底には当時の段差が残されているとのこと。
5世紀頃この地に移住して来た秦氏は、それまでの暴れ川だった桂川(渡月橋付近では大堰川)の治水を行い、田畑を開拓したという。
<松尾大社(まつのおたいしゃ)>京都府京都市西京区嵐山宮町3
松尾大社は阪急・嵐山線「松尾大社駅」から徒歩2分ほどの距離にあり、マイカーなどの車では大社の専用駐車場がある。
秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源;葛野大堰)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行った。その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当大社境内地内を通っている。
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになった。 酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できるとしている。
また、境内にある解説板には「松尾大社(まつのおたいしゃ) 大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の二神を祀る。 大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し、秦氏の氏神として当地に社殿を建立したのが起こりと伝えられる。平安遷都後は王城鎮護の神として、また中世以降は酒造の神として人々の信仰を集めている。 本殿(重要文化財)は、「松尾造(両流造(りょうながれづくり))」と呼ばれる珍しい建築で、天文十一年(1542)に改築されたものである。宝物館には、等身大の男神座像二体、女神座像一体(ともに重要文化財)が安置されている。 また、境内の霊泉「亀の井」の水を醸造のときに混ぜると酒が腐らないと伝えられる。 毎年四月の松尾祭には、境内に山吹が咲き乱れ、桂川で神輿(みこし)の船渡御(ふなとぎょ)が行われる。また、七月には御田祭(おんださい;市無形文化財)が行われるなど、多くの人々でにぎわう。 京都市」と書かれていた。
船渡御で使われる船
霊泉「亀の井」と亀の像
松尾大社 拝殿
<蛇塚古墳(へびづかこふん)>京都府京都市右京区太秦面影町
京都・太秦(うずまさ)にある前方後円墳で、秦河勝(はたのかわかつ)の物とする説もある。
前方後円墳とされるが、写真のようにかなり崩壊が進んでおり(破壊によるものか、発掘によるものかは分からない)、地上からはとても前方後円墳には見えない。
住宅街の中にあるこの古墳は、一種モニュメントのようにも思えるが6世紀から7世紀の古墳時代後期のものとされる。
秦氏の氏寺とされる広隆寺(こうりゅうじ)からも歩いて10分ほどの距離にある。尚、古墳の周りには駐車場はないため、私は広隆寺近所のコインパーキングに車を置いて歩いた。
<大酒神社(おおさけじんじゃ)>京都府京都市右京区太秦蜂岡町
当地太秦(うずまさ)を開拓した秦氏の氏神を祀る神社と言われる。Wikiによれば、「延喜式」神名帳には「大酒神社(元名 大辟神社)」とあり、昔は大辟神社だったことがわかるとされている。
神社自体はかなり小さ目の神社だが、境内は綺麗に整理されていて訪れる人も殆どなく、本来なら静かな所だろう。しかし、割と車の交通量の多い道が神社の脇を通っているため、思いの外騒音が聞こえた。
ここも神社の駐車場などはないため、蛇塚古墳から歩いて移動した。
こじんまりした社殿は村の鎮守様的風情を感じる。
神社入り口にあった由緒書には「由緒書 宗教法人 大酒神社 祭神 秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ) 相殿 兄媛命(えひめのみこと;呉服女(くれはとり))、弟媛命(おとひめのみこと;漢織女(あやはとり)) 神階 正一位、治歴四年四月(1068年) 当社は、延喜式神名帳葛野(かどの)郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀(ちゅうあい)天皇八年(356年)皇帝十四世の孫、功満王(こうまんおう)が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴(じゅんぼく)なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。 これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。 后(のち)の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(372年)百済(くだら)より百二十七県(あがた)の民衆(ともがら)一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛(ぎょくはく)の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥(おびただ)しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う意味で、酒公に兎豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側(かたわら)にありしが明歴年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。 機織(はたおり)のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。 今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。 広隆寺建立后、寺内 桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。 尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。 又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾大社を創立。和銅四年(713年)秦伊呂具(はたのいろぐ)が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発達に貢献した、秦氏族の祖神である。 昭和五十九年五月」と書かれていた。
古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(兵庫県) [近畿]
2016年5月31日
<出石神社(いずしじんじゃ)>兵庫県豊岡市出石町宮内99
当神社は天日槍(あめのひぼこ)と伊豆志八前大神(いずしやまえおおかみ)を主祭神として祀っている。
天日槍は「播磨国風土記」には朝鮮半島から父の国を探しに日本に訪れたとされている。天日槍が秦氏と関係がある訳ではなく、同行した多くの技術者(職人?)がこの地に住み着き、後に中央(朝廷)の秦氏の傘下に入れられたために「秦氏ゆかりの地」となったのではないかと思われる。
天日槍は新羅王子として渡来し、泥の海であった但馬を現在の肥沃な土地にしたということで但馬開発の神とされ、今でも土木工事完成を祝う祭りが行われているとのこと。
出石神社は但馬国一之宮でもあり「一宮(いっきゅう)さん」の呼び名で親しまれているらしい。
秦河勝は聖徳太子の右腕とも言われる秦氏では最も有名な氏長といえる。京都・太秦(うずまさ)にある広隆寺(こうりゅうじ)などでも有名だが、当地、赤穂の坂越(さこし)には、蘇我入鹿(そがのいるか)の迫害を避けて来たとの話もある。
5世紀後半に秦酒公(はたのさけのきみ)という秦氏長が太秦(うずまさ)の地とその名前「太秦」を賜ったと言われている。その関係からか、秦氏関係の土地には「大酒」、「大避」、「大辟」などの字を使う神社があるようだ。
当神社は瀬戸内海に面した海岸から少し山側に入った所にあるが、当神社の駐車場は特にないようで、神社参道入り口にある駐車スペース(2-3台分)に止めるしかない。ここは普段近隣住民も使用しているようで、タイミングが悪いと駐車できない可能性もある。
パーキングから参道の坂道を数分登ると正面に神社がある。神社境内はそれほど広いとは思われなかったが、予想より大きく感じたのは拝殿、本殿などの建物である。建物自体は無垢の木造で非常に歴史を感じるが、他の神社などでみられる朱色に塗られた所がない分、地味ではあるが、より神域を感じさせられた。
古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府)2 [近畿]
古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府) [近畿]
2014年10月から2015年3月にかけて3回ほどこの”秦氏”ゆかりの地を巡って来たので、ここに記録する。
<広隆寺> 京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
太秦交差点の角にある”聖徳太子”を本尊とする寺で、開祖は”秦河勝”。正に秦氏の氏寺といえる。
創建時は住所にもある「蜂岡寺」と云ったようだが、その後「広隆寺」となっている。
境内にある「太秦殿」に簡単な解説が書かれていた。「往古より秦氏を祭祀せる神社なり 本尊は秦河勝公 後に漢織女、呉織女を合祀す 天保十二年十二月再建す 百済国の弓月君百二十県の民を率いて帰化し其の子孫河勝に至りて地を山城北部に賜い葛野に居住し土地を開拓し、養蚕機織の業に従い之を奨励した。後人其の徳を讃へ神と崇め太秦明神と称した。」
<木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)>京都府京都市右京区太秦森ケ東町50
同社を訪れた10月12日は祭りの日に当たっていたようだ。神社の付近や境内には揃いの法被を着た人々が大勢いて、神輿も担がれていた。
同社の”由緒(ゆいしょ)”については左の写真を参照戴きたいが、特に同社の主祭神四柱中「天之御中主神」を祀っていると書かれている。この「天之御中主神」を主祭神として祀っている神社は全国でも少ない貴重な神社と思われた。
当社の目玉とも言える「蚕ノ社(かいこのやしろ)」は、上の「由緒」でも記載されているように本殿右側にあるとなっていた。「蚕養神社」が「蚕ノ社」である。(この写真は2016年6月1日に撮影)
また”由緒”の最後「三柱鳥居」の項の最後に「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている」と書かれているが、写真のように普通の鳥居とは全く異なった形をしている。この神社最大の謎ともいえる。ケン・ジョセフ/シニア&ジュニア著「(隠された)十字架の国・日本」では「関西大学元教授 池田 栄氏の説として、”この三柱鳥居は、秦氏の信奉していた古代基督教の三位一体信仰の象徴であろう”と述べ」たとしている。本書では”秦氏”は「景教徒」であったとのスタンスで書かれているのである。(上の三柱鳥居の写真(右)は2016年6月1日に撮影)
※当記事は別ブログ「雑記帳」で2015年10月12日に記載したものを移動しました。