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古代渡来人”徐福”伝説の地(山梨県) [中部]

2017年3月7日

徐福一行は九州佐賀付近に上陸した後、仙薬(不老不死の薬)を求めて北上し、蓬莱山と認めた富士山の麓の富士吉田、山中湖、河口湖周辺にたどり着いたとする伝承がある。
明治16年(1883年)に富士山麓の明日見村(現富士吉田市)で発見された富士古文献宮下文書とも)にはそう書かれていたようだ。但し、この古文献は偽書との評価もあり、史実は闇の中と言わざるを得ない。 

鶴塚(つるづか)>山梨県富士吉田市下吉田3丁目41-18 聖徳山福源寺境内

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当地で没した徐福の墓所より鶴が飛び立ち、それを見た人々は徐福の墓所を鶴塚とよんだという。

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鶴塚のある当福源寺には聖徳太子ゆかりの六角太子堂などもある。



徐福の祠・徐福大明神(徐福の墓)>山梨県富士吉田市小明見3212

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太神社は新興住宅街の中にある小高い丘の上に位置している。社務所など神社を管理する場所はなく、氏子の方々が掃除や管理をされているのではないかと想像された。勿論、専用駐車場などはない。
社殿は上の写真のように現代風に見えるもので、最初に見た時は個人の住宅と見間違えてしまった。
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太神社
境内にある徐福の祠・徐福大明神は並んで置かれている。写真左が徐福の祠であり、右が徐福大明神である。一説には徐福大明神と書かれた祠が徐福の墓だという。

 

富士山徐福之碑(ふじさんじょふくのひ)>山梨県富士吉田市上吉田5562-7 浅間茶屋本店駐車場敷地内

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日中友好の記念碑として建てられた富士山徐福之碑は、特に徐福にゆかりの地という訳ではないようだった。
当地を訪れた際に県道701号富士上吉田線沿いに富士山徐福之碑の看板を発見して入った所は食事処の駐車場だった。しかしよく見ると駐車場の一番奥に富士山徐福之碑を発見することができた。
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ネット情報では、碑には中国仏教協会長の趙樸初氏が徐福の故事を偲んだ詩が刻まれているとのことだった。


徐福雨乞地蔵祠(じょふくあまごいじぞうし)>山梨県富士吉田市小明見21-6207

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小高い丘の上に造られた祠(ほこら)とされているが、普通の祠のように何かを祀っている様子はなく、名前の「地蔵」も祀っている様子はなかった。祠というよりは小屋という感じだった。
また、写真のように祠、祠の横の徐福像ともに新しいもので、昔からこの地に徐福関係の何かが祀られていた形跡は認められなかった。
新たにここに祠や徐福像を建てたのは良いが、何故ここなのかがよく分からない。
の専用駐車場はない。また写真に写っている徐福公園というのも何処が公園なのか分からなかった。従って公園の駐車場らしき所もなかった。
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祠の中には、秦から渡来した時に乗って来たであろう船とそれに乗る徐福を現したミニチュア模型のようなものが置かれていた。(分かり辛い写真で申し訳ない。)

波多志神社(はたしじんじゃ)>山梨県南都留郡富士河口湖町河口1 浅間神社境内

波多志神社は河口浅間神社の境内、正確には拝殿に向かう参道の中央にある。従って、当神社に向かうには河口浅間神社に向かえば良いのである。
河口浅間神社はかなり大きな神社で、社務所も当然あり、境内の整備もしっかり行われている。従って、専用駐車場もあり、私はそこにマイカーを置かせてもらった。但し、この駐車場には河口湖の消防団があるためちょっと驚くかも知れないが、逆に駐車場に消防団があれば間違いなく浅間神社の駐車場ということになる。緊急自動車の出入があるかも知れないので、駐車場所には注意したい。
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さて、浅間神社の鳥居を潜り参道を進むと神門があり、その先には拝殿があるというお約束のパターンになる。拝殿の横には合祀された村内(明治9年当時)小社の合祀社がある。

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そして、目指す波多志神社は先の鳥居と神門の間の参道の真ん中にある。しかし神社名などが見つからず、スマホでネット情報を見て確認した次第である。


古代渡来人”徐福”伝説の地(愛知県) [中部]

2016年3月5日

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菟足神社(うたりじんじゃ)愛知県豊川市小坂井町宮脇2


”秦氏ゆかりの地”の第2弾は、愛知県である。

 

愛知県豊川市のJR飯田線と国道1号が交差する辺りから少し南に行った所に菟足神社(うたりじんじゃ)はある。

比較的こじんまりした境内ではあるが、綺麗に整備され、今でも人の手が入れられていることが良く分かる。また、豊川市教育委員会の解説板が複数立てられており、その歴史の古さが伺われた。 


当社に関わる伝説として以下のような解説がなされている。「菟足神社(うたりじんじゃ)と徐福伝説(じょふくでんせつ) 今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝(しこうてい)は、徐福から東方海上に蓬莱(ほうらい)など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからその後の徐福一行の動向はわかっていない。 ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられる。 一 熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。 ・ 豊橋市日色野町には、「秦氏の祖先は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」との言い伝えがある。 ・ 牛窪記(元禄十年(1697)頃成立)には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊(てまどのみなと)ヨリ徐氏古座侍郎(こざのじろう)泛舟(ふねをうかべ)、此国澳六本松(おきのろっぽんまつ)ト云浜ニ来ル。ー中略ー徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ・・・・・・」とある。 二 菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。


また、当「菟足神社」の解説には「式内 菟足神社(うたりじんじゃ) 御祭神 菟上足尼命(うなかみすくねのみこと) 創立 白鳳十五年(686) 穂の国(東三河の古名)の国造(くにのみやっこ)であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく当地に御遷座になった。 当社の大般若経五八五巻は、国の重要文化財に指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(一一七六、一一七九)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた。)なお応安三年(一三七〇)の銘のある梵鐘(昭和三九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河国名所図絵に出ている。 当社のお田祭の行事(昭和二九年県無形文化財指定)は、旧正月七日に行われる。 風祭として知られる例祭は、四月第二土曜・日曜日に行なわれ、打上花火、手筒花火は特に名高い。 また、祭礼の古面(五面)は昭和四〇年県文化財に指定されている。 豊川市教育委員会」と記されており、祭神の「菟上足尼命」は雄略天皇の治世に「国造」に任命されたようである。



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