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はじめに

2020年8月29日

当ブログを記載するに当たり、基本的な考え方などをまとめておくのが適当と思い付き、遅ればせながらここに記載させて頂きます。尚、一部の記載について編集し直した部分があることをお断りしておきます。

古代(紀元3世紀頃)、朝鮮半島より大挙して日本に渡来した、記録に残る渡来人としては最大数を誇るとされる”秦氏(はたし、はたうじ、はだし等の読みがある)”は山背国(やましろのくに;現在の京都府南部)を中心に活動したとされますが、その一族は関東から九州まで広く分布したとされます。現在残る「秦」「畑」「畠」「波多」などの字が付く地名や苗字は”秦氏”ゆかりの地や末裔とも言われています。
秦氏は、他の渡来系氏族が朝廷内で活躍する中、殆ど朝廷内での活動を行なわず、専ら在野での活動に専念したといわれています。”機織”、”醸造”、”灌漑”、”農耕”などその持てる技術により「生産」を行なう一方、生産された”産物”で”商業活動”を盛んに行ない、財力を高め、側面からの朝廷援護を行なったとされます。それまで奈良の平城京が都であったのを、山背国(京都)の平安京に遷都したその大きな援助も秦氏によるものと言われています。
多くの秦氏一族が在野で活動している中、記録上最も朝廷内で活躍した人物が「秦河勝(はたのかわかつ)」でした。彼は”聖徳太子(しょうとくたいし)”の右腕として国内はもとより、外交でも活躍しました。「秦河勝」広隆寺(こうりゅうじ)(京都市太秦)を建立し、その宝物殿には河勝の木像もあます。
秦氏については謎も多く、渡来人でありながら自らの信仰(宗教)を先住民に押付けることなく、寧ろ先住民の信仰を保護し、それに溶け込むような形をとったとされています。京都市西京区嵐山宮町にある「松尾大社(まつのおたいしゃ)」や京都市伏見区深草にある「伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)」、「上賀茂神社(かみがもじんじゃ;正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ))」「下鴨神社(しもがもじんじゃ;正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ))」などを奉斎していましたが、上下の賀茂神社については、後に奉斎を”鴨氏”に譲っているといわれています。

また、第2回記載2016年3月5日)の菟足神社(うたりじんじゃ)で触れている通り、(中国)の始皇帝の命を受け、約3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を乗せた大船団で東海の三神山(蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう))にあるとされる仙薬(不老不死の薬)を探しに東渡したとされる徐福一行は、秦氏と同義或いは秦氏に含まれるとも言われています。

当ブログでは「徐福は秦氏に含まれる」という解釈の元で「徐福ゆかりの地」も記して行こうと考えています。

何れにしても秦氏徐福も諸説あり虚実交々の状態ですが、真偽を見極める術もなく、またその必要もないと思われることから”ゆかりの地”への訪問をして行きたいと考えています。

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