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古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府)4 [近畿]

今回紹介の2ヶ所は、何れも秦河勝(はたのかわかつ)が関係した場所である。(2020年9月20日記)

2018年5月25日


当寺は正式には放生院常光寺(ほうじょういんじょうこうじ)と言い、宇治川にかかる宇治橋の管理寺と言われた。寺伝によれば推古天皇12年(604年)に信任熱い聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))の命により秦河勝が宇治川橋をかけた際に当寺も開創されたという。
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当寺は京阪宇治線・宇治駅(終点)から徒歩3-4分の距離にあり、宇治川縁の土産物屋などが立ち並ぶ朝霧通沿いに橋寺放生院山門がある。境内はこじんまりとしていて寺自体もさほど大きいものではなかった。



2018年5月27日

<笛吹神社(ふえふきじんじゃ)>京都府南丹市日吉町木住小字宮ノ平

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当神社は秦河勝広隆寺を造営した際にこの地のケヤキの大木を用いたため、そのお礼として社を設けたのがはじまりと伝えられている(京都府HPより)そうで、境内には立派な大杉の木が生えている他、周辺にも良く育った杉の木が生えていた。
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当神社の祭神は大山住尊(おおやまずみのみこと)とし、その実は住吉大明神(すみよしだいみょうじん)と解説板に書かれているが、祭神を仲哀天皇神功皇后とするネット情報もある。当神社の解説板には文責が明示されていないため、氏子の誰かが書いたものともとれるが、ここでは解説を正式なものと解釈する。


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古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(山口県) [中国]

2017年6月10日・11日


<土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)>下関市豊北町神田上891-8(土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム

土井ヶ浜遺跡周辺には秦氏にまつわる伝説が残っていると言うネット情報があり、どんな伝説なのかを知りたいと思って訪問した。

下関の街から車で約1時間の距離にあり、R191は海岸線を走ることになるため、非常に気持ちの良いドライブとなった。
目指す土井ヶ浜遺跡は「人類学ミュージアム」が併設されているため、ここを目指す方が分かり易い。実は、マイカーのナビにあまり慣れていなかったこともあり、土井ヶ浜遺跡を設定した所ミュージアムの裏手に誘導されてしまい、少々焦ったりしたのである。
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早速敷地内に入り、先ず目に入って来たのは「土井ヶ浜ドーム」と言う遺跡をドームで覆い保存している場所だった。そして反対側には「人類学ミュージアム」の建物があった。残念ながらこの日は開館時間(9:00-17:00)を過ぎてしまっていたため、ドームにもミュージアンムにも入ることができなかったため、翌日出直すことにした。
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翌日はミュージアム開館の9:00を少し過ぎた頃に、ミュージアムの駐車場に着くことができた。車を置くと直ぐに入館し、中の展示やドームの発掘現場を見学した。
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展示によると発掘により約300体の人骨が発見されたとのこと。
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その人骨を縄文人のものと比較すると、各所の骨のサイズが異なるなど縄文人とは異なることが分かり、更には副葬品に土井ヶ浜周辺では採ることのできない貝の装飾品も発見されたことなどから、土井ヶ浜に居た人々は外から来た集団の可能性が示唆されたようだ。つまり渡来人秦氏に関係するのではないかと(私は)期待したが、それを示唆する物は見つかっていないようだった。
ネット上では、北部九州に渡来した渡来人(秦氏)の一部がこの土井ヶ浜に移住したのではないかとする説や、徐福がここに来たのではないかとする説なども見られたが、可能性としては考えられるものの、裏付ける証拠はないようで、肯定も否定もできないようである。
最初に期待した「秦氏伝説」の内容は判明しなかった。


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古代渡来人”徐福”伝説の地(高知県) [四国]

2017年5月16日


虚空蔵山(こくうぞうさん)高知県高岡郡佐川町川ノ内組(Google Mapによる)

虚空蔵山は高知県佐川町~土佐市に位置する標高630mの小高い山で、ここに徐福に関わる伝説がある。
「約2200年前、始皇帝の命により仙薬(不老長寿の薬)を探しに出かけた方士徐福一行は高知県須崎の海岸に漂着し、虚空蔵山が蓬莱山ではないかと仙薬を探しに登山したが、結局見つけることはできなかった。」というものである。また別の話には、「漂着した徐福一行は仙人が住むという山(虚空蔵山)の話を聞きそこが蓬莱山ではないかと登って仙人を探したが見つけることができなかった。仕方なく頂上に鉾と宝を埋めたという。」どちらにしても、徐福は目的を果たすことはできなかったのである。

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古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(徳島県) [四国]

2017年5月15日


神明神社(しんめいじんじゃ)徳島県美馬市穴吹町口山字宮内

当神社は神明神社または磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)と言われている。徳島県美馬市のHPによると、「築造年代の詳細は不明だが、石積技法や「白人大明神由来書」の記述から、少なくとも現在の姿については近世以降のものである。成立年代は比較的新しいが、神社遺構として他に類例がなく、貴重な資料である。」としているが、その磐境(いわさか)の石垣が造られたのはもっと古く、無加工の自然石を使って造っている所などはイスラエル南部にある古代都市テル・アラッドの神殿跡に似ている所から、一説には古代イスラエルの「失われた10支族」の一部が渡来してこの磐境を作ったのではないかとも言われている。そのためかどうかは分からないが、美馬市の広報誌に(元)駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏が当地を視察したことを報じている。(2007年2月発行)

当神社には秦氏ゆかりの地ということで行って見た訳だが、よくよく調べてみると上述のように失われた10支族の関係施設ということで、秦氏と関係があるのかどうか分からない。ただ、渡来した秦氏の中に失われた10支族の人々が含まれていたのではないかという考えもあるようである。
余談だが、現在のイスラエル人は外見上コーカソイド系(西洋人?)のように見えるが、古代イスラエル人は寧ろモンゴロイド系(東洋人?)に近かったという説もある。もしそうであれば、秦氏一行に混ざって渡来していても分からない可能性はある。

神明神社に向かうに当たって、マイカーのナビに神明神社を設定して向かった訳だが、最後の最後、白人神社(しらひとじんじゃ)の所で分からなくなってしまい、取り敢えず白人神社の駐車場に止めさせてもらうことにした。ナビ上近くまで来ているのは間違いないため、後は徒歩で行って見ることにして、スマホのGoogle Mapでナビをしてもらうがどうも要領を得ない。近隣をウロウロして漸く駐車場近くにそれらしき階段を見つけた。
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写真のようによく見ると階段の両側に狛犬があり、その奥には壊れた鳥居のような柱がある。階段の両側の木々は伐採され、脇には工事用の重機も置かれていたりして少々不安感は拭えなかったが、とにかく結構きつい石段を上ることにした。
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石段を上り切ると美馬市教育委員会名で記載された解説板があり、内容は写真の通りである。
更に進むと目指す磐境が見えて来た。
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明らかに普通の神社の形態とは異なっているのが一目でわかった。苔生した石垣の中に小さな祠が全部で5つあり、祭神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)、崇徳(すとく)天皇源為朝(みなもとのためとも)となっているそうだが、これらの神を祀るのは「古事記」、「日本書紀」以降がほとんどであるため、当初は違う神を祀っていたのではないかと思われた。

神明神社から駐車場まで戻ると、白人神社にも行って見ることにした。神明神社白人神社奥宮と言うことらしいので、白人神社神明神社に関する何か解説などがあるかも知れないと思ったのである。
2017-05-15_0001.jpg2017-05-15_0004.jpg白人神社の社名にもチョット何かいわれを感じ神社に向かったが、境内に神明神社白人神社の社名などを説明する解説などはなかった。Wikipediaの解説には白髪の老人の伝承を乗せているが、美馬市のHPでは白髪の老人には触れていない。

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古代渡来人”徐福”伝説の地(山梨県) [中部]

2017年3月7日

徐福一行は九州佐賀付近に上陸した後、仙薬(不老不死の薬)を求めて北上し、蓬莱山と認めた富士山の麓の富士吉田、山中湖、河口湖周辺にたどり着いたとする伝承がある。
明治16年(1883年)に富士山麓の明日見村(現富士吉田市)で発見された富士古文献宮下文書とも)にはそう書かれていたようだ。但し、この古文献は偽書との評価もあり、史実は闇の中と言わざるを得ない。 

鶴塚(つるづか)>山梨県富士吉田市下吉田3丁目41-18 聖徳山福源寺境内

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当地で没した徐福の墓所より鶴が飛び立ち、それを見た人々は徐福の墓所を鶴塚とよんだという。

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鶴塚のある当福源寺には聖徳太子ゆかりの六角太子堂などもある。



徐福の祠・徐福大明神(徐福の墓)>山梨県富士吉田市小明見3212

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太神社は新興住宅街の中にある小高い丘の上に位置している。社務所など神社を管理する場所はなく、氏子の方々が掃除や管理をされているのではないかと想像された。勿論、専用駐車場などはない。
社殿は上の写真のように現代風に見えるもので、最初に見た時は個人の住宅と見間違えてしまった。
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太神社
境内にある徐福の祠・徐福大明神は並んで置かれている。写真左が徐福の祠であり、右が徐福大明神である。一説には徐福大明神と書かれた祠が徐福の墓だという。

 

富士山徐福之碑(ふじさんじょふくのひ)>山梨県富士吉田市上吉田5562-7 浅間茶屋本店駐車場敷地内

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日中友好の記念碑として建てられた富士山徐福之碑は、特に徐福にゆかりの地という訳ではないようだった。
当地を訪れた際に県道701号富士上吉田線沿いに富士山徐福之碑の看板を発見して入った所は食事処の駐車場だった。しかしよく見ると駐車場の一番奥に富士山徐福之碑を発見することができた。
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ネット情報では、碑には中国仏教協会長の趙樸初氏が徐福の故事を偲んだ詩が刻まれているとのことだった。


徐福雨乞地蔵祠(じょふくあまごいじぞうし)>山梨県富士吉田市小明見21-6207

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小高い丘の上に造られた祠(ほこら)とされているが、普通の祠のように何かを祀っている様子はなく、名前の「地蔵」も祀っている様子はなかった。祠というよりは小屋という感じだった。
また、写真のように祠、祠の横の徐福像ともに新しいもので、昔からこの地に徐福関係の何かが祀られていた形跡は認められなかった。
新たにここに祠や徐福像を建てたのは良いが、何故ここなのかがよく分からない。
の専用駐車場はない。また写真に写っている徐福公園というのも何処が公園なのか分からなかった。従って公園の駐車場らしき所もなかった。
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祠の中には、秦から渡来した時に乗って来たであろう船とそれに乗る徐福を現したミニチュア模型のようなものが置かれていた。(分かり辛い写真で申し訳ない。)

波多志神社(はたしじんじゃ)>山梨県南都留郡富士河口湖町河口1 浅間神社境内

波多志神社は河口浅間神社の境内、正確には拝殿に向かう参道の中央にある。従って、当神社に向かうには河口浅間神社に向かえば良いのである。
河口浅間神社はかなり大きな神社で、社務所も当然あり、境内の整備もしっかり行われている。従って、専用駐車場もあり、私はそこにマイカーを置かせてもらった。但し、この駐車場には河口湖の消防団があるためちょっと驚くかも知れないが、逆に駐車場に消防団があれば間違いなく浅間神社の駐車場ということになる。緊急自動車の出入があるかも知れないので、駐車場所には注意したい。
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さて、浅間神社の鳥居を潜り参道を進むと神門があり、その先には拝殿があるというお約束のパターンになる。拝殿の横には合祀された村内(明治9年当時)小社の合祀社がある。

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そして、目指す波多志神社は先の鳥居と神門の間の参道の真ん中にある。しかし神社名などが見つからず、スマホでネット情報を見て確認した次第である。


古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府)3 [近畿]

2016年6月1日

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)京都府京都市伏見区深草薮之内町68番地

当大社はJR奈良線「稲荷からが近い。駅の目の前が大社となるのである。しかし私は例によってマイカーで向かった。当大社の駐車場は大社のすぐ脇にあるが、平日(この日は水曜日)でも駐車場に入るのに渋滞が起こる状況で、時間帯などを考慮して向かった方が良いように思われた。

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当大社が秦氏ゆかりの地というのは「知る人ぞ知る」という感じかも知れない。かく言う私も秦氏に興味を持って色々調べる中で初めて知った訳で、非常にお恥ずかしい次第である。

さて、伏見稲荷大社のHPによれば、欽明天皇(きんめいてんのう)の夢で「(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」ということだったため、使者を遣わして探したところ、山背国紀伊郡深草里に秦大津父がいたため彼を今でいう大蔵省の重席に任じた。
稲荷大神は秦伊呂巨(具)はたのいろこ(ぐ))によって和銅四年(711)に鎮座されたときしている。
元々、
山背国(やましろのくに) には秦氏が多く住んでいたこともあり、大津父のような伝承も生まれたのではないかと思われる。

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伏見稲荷大社の中でもかなり有名で、よくTVのバックにも使われる千本鳥居がこれである。

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図のように、千本鳥居の先の山の頂上には熊鷹社があるとなっているが、とても頂上までは体力的に不可能と思われ、早々に退散することにした。



葛野大堰(かどのおおい)>京都市西京区渡月橋上流

京都・嵐山の渡月橋(とげつきょう)は観光名所として有名だが、橋のすぐ上流側に階段状の(せき)があるのを見たことのある方もいると思う。これが実は秦氏が築いた葛野大堰と呼ばれる治水工事の跡である。
当地へもマイカーで訪問。要は渡月橋を目指していくことになるので、問題は何処に車を止めるかであるが、何とか嵐山の商店街のパキングに止めることがで来た。

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秦氏が築いた葛野大堰自体は既に失われているが、今も川底には当時の段差が残されているとのこと。
5世紀頃この地に移住して来た秦氏は、それまでの暴れ川だった桂川(渡月橋付近では大堰川)の治水を行い、田畑を開拓したという。
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松尾大社(まつのおたいしゃ)京都府京都市西京区嵐山宮町3

松尾大社阪急・嵐山線「松尾大社駅」から徒歩2分ほどの距離にあり、マイカーなどの車では大社の専用駐車場がある。

当大社のHPによれば、5世紀頃、秦(はた)氏は松尾山の神を一族の総氏神としてこの地方の開拓に従事したと伝えられている。「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」これらの記述は、秦氏がこの地方一帯を開拓したことを示すものと言える。 
秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源;葛野大堰)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行った。その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当大社境内地内を通っている。 
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになった。 酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できる
としている。

 また、境内にある解説板には「松尾大社(まつのおたいしゃ) 大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の二神を祀る。 大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し、秦氏の氏神として当地に社殿を建立したのが起こりと伝えられる。平安遷都後は王城鎮護の神として、また中世以降は酒造の神として人々の信仰を集めている。 本殿(重要文化財)は、「松尾造(両流造(りょうながれづくり))」と呼ばれる珍しい建築で、天文十一年(1542)に改築されたものである。宝物館には、等身大の男神座像二体、女神座像一体(ともに重要文化財)が安置されている。 また、境内の霊泉「亀の井」の水を醸造のときに混ぜると酒が腐らないと伝えられる。 毎年四月の松尾祭には、境内に山吹が咲き乱れ、桂川で神輿(みこし)の船渡御(ふなとぎょ)が行われる。また、七月には御田祭(おんださい;市無形文化財)が行われるなど、多くの人々でにぎわう。 京都市」と書かれていた。
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船渡御で使われる船
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霊泉「亀の井」と亀の像

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松尾大社 拝殿

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お酒の資料館 酒の神とされていることからこのような施設もあるのではないかと思われる。

 

蛇塚古墳(へびづかこふん)京都府京都市右京区太秦面影町

京都・太秦(うずまさ)にある前方後円墳で、秦河勝(はたのかわかつ)の物とする説もある。
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前方後円墳とされるが、写真のようにかなり崩壊が進んでおり(破壊によるものか、発掘によるものかは分からない)、地上からはとても前方後円墳には見えない。
住宅街の中にあるこの古墳は、一種モニュメントのようにも思えるが6世紀から7世紀の古墳時代後期のものとされる。

秦氏の氏寺とされる広隆寺(こうりゅうじ)からも歩いて10分ほどの距離にある。尚、古墳の周りには駐車場はないため、私は広隆寺近所のコインパーキングに車を置いて歩いた。

 

大酒神社(おおさけじんじゃ)京都府京都市右京区太秦蜂岡町

当地太秦(うずまさ)を開拓した秦氏の氏神を祀る神社と言われる。Wikiによれば、延喜式神名帳には「大酒神社(元名 大辟神社)」とあり、昔は大辟神社だったことがわかるとされている。
神社自体はかなり小さ目の神社だが、境内は綺麗に整理されていて訪れる人も殆どなく、本来なら静かな所だろう。しかし、割と車の交通量の多い道が神社の脇を通っているため、思いの外騒音が聞こえた。
ここも神社の駐車場などはないため、蛇塚古墳から歩いて移動した。
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こじんまりした社殿は村の鎮守様的風情を感じる。
神社入り口にあった由緒書には「由緒書 宗教法人 大酒神社 祭神 秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ) 相殿 兄媛命(えひめのみこと;呉服女(くれはとり))、弟媛命(おとひめのみこと;漢織女(あやはとり)) 神階 正一位、治歴四年四月(1068年) 当社は、延喜式神名帳葛野(かどの)郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀(ちゅうあい)天皇八年(356年)皇帝十四世の孫、功満王(こうまんおう)が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴(じゅんぼく)なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。 これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。 后(のち)の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(372年)百済(くだら)より百二十七県(あがた)の民衆(ともがら)一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛(ぎょくはく)の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥(おびただ)しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う意味で、酒公に兎豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側(かたわら)にありしが明歴年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。 機織(はたおり)のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。 今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。 広隆寺建立后、寺内 桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。 尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。 又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾大社を創立。和銅四年(713年)秦伊呂具(はたのいろぐ)が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発達に貢献した、秦氏族の祖神である。 昭和五十九年五月と書かれていた。


古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(兵庫県) [近畿]

2016年5月31日

出石神社(いずしじんじゃ)兵庫県豊岡市出石町宮内99

当神社は天日槍(あめのひぼこ)と伊豆志八前大神(いずしやまえおおかみ)を主祭神として祀っている。
天日槍は「播磨国風土記」には朝鮮半島から父の国を探しに日本に訪れたとされている。天日槍秦氏と関係がある訳ではなく、同行した多くの技術者(職人?)がこの地に住み着き、後に中央(朝廷)の秦氏の傘下に入れられたために「秦氏ゆかりの地」となったのではないかと思われる。

天日槍は新羅王子として渡来し、泥の海であった但馬を現在の肥沃な土地にしたということで但馬開発の神とされ、今でも土木工事完成を祝う祭りが行われているとのこと。
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出石神社但馬国一之宮でもあり「一宮(いっきゅう)さん」の呼び名で親しまれているらしい。 

 
 
大避神社(おうさけじんじゃ)兵庫県赤穂市坂越1299
 
祭神が秦河勝(はたのかわかつ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、春日大神(かすがおおかみ) の3柱となっており、秦氏の氏長を祀る神社と言って良いと思われる。
秦河勝聖徳太子の右腕とも言われる秦氏では最も有名な氏長といえる。京都・太秦(うずまさ)にある広隆寺(こうりゅうじ)などでも有名だが、当地、赤穂の坂越(さこし)には、蘇我入鹿(そがのいるか)の迫害を避けて来たとの話もある。
5世紀後半に秦酒公(はたのさけのきみ)という秦氏長が太秦(うずまさ)の地とその名前「太秦」を賜ったと言われている。その関係からか、秦氏関係の土地には「大酒」、「大避」、「大辟」などの字を使う神社があるようだ。

当神社は瀬戸内海に面した海岸から少し山側に入った所にあるが、当神社の駐車場は特にないようで、神社参道入り口にある駐車スペース(2-3台分)に止めるしかない。ここは普段近隣住民も使用しているようで、タイミングが悪いと駐車できない可能性もある。
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パーキングから参道の坂道を数分登ると正面に神社がある。神社境内はそれほど広いとは思われなかったが、予想より大きく感じたのは拝殿、本殿などの建物である。建物自体は無垢の木造で非常に歴史を感じるが、他の神社などでみられる朱色に塗られた所がない分、地味ではあるが、より神域を感じさせられた。
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参道入り口近くの海にある生島禁足地で、島内には祭礼の御旅所(おたびしょ)があるようである。


古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府)2 [近畿]

2016年5月27日

上賀茂神社(かみがもじんじゃ正式には賀茂別雷神社:かもわけいかずちじんじゃ)>京都市北区上賀茂本山339番地
 
上賀茂神社は下鴨神社とともに世界文化遺産に登録となっている。また上賀茂神社山城国一之宮となっている。
(上下)賀茂神社は、古代氏族鴨氏が氏神として奉斎する神社とされているが、元々は秦氏が奉斎していてこれを鴨氏に譲ったという説がある。 
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境内に立てられた解説板の中に「上賀茂神社と謡曲「賀茂」」 があり「秦氏の妻女の玉依日売(たまよりひめ)が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿しておいたところ、懐妊して男子を産んだ。その子が三歳の時、父は雷と知り、天に昇って別雷(わけいかずち)の神となる。この神を祀ったのが当神社で、正式名を賀茂別雷神社という。 神社は京都でも最も古い神社の一つ。雷神を祀ることから厄除けのほか、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めた。 謡曲「賀茂」は、こうした神社の縁起から捜索された曲で、五穀豊穣、国土守護の神徳を讃えた「初能物」である。 平安時代初期から四百年にわたって、伊勢神宮の斎宮と同様に斎院が置かれ、歴代皇女が奉仕してきたこともある。 謡曲史跡保存会」と書かれていることからも、秦氏が関係する気配が見える。
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残念ながら他に境内に秦氏との関連を思わせる碑や記載などは発見できなかった。
 
 


下鴨神社(しもがもじんじゃ正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ))>京都市左京区下鴨泉川町59

京阪電車の京都側終着駅「出町柳」駅から徒歩12分、または車の場合、西駐車場に駐車可能となっている。(下鴨神社HPより)
私は車(マイカー)で行ったが、西駐車場の入り口が分かり辛く、神社の周りを2周ほどしてしまった。また、駐車場もあまり広くはなく、タイミングによっては駐車待ちを強いられる可能性もある。観光地「京都」の街中の施設なので仕方がないが、マイカー利用の際は注意したい。
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当神社の案内板やHPには「山城国一之宮」の文言は見えないが、神社事務局のwebサイト「日本神社」及び「全国一の宮めぐり(全国一の宮会編)」では(上下)賀茂神社山城国一之宮とされている。


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古代渡来人”徐福”伝説の地(愛知県) [中部]

2016年3月5日

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菟足神社(うたりじんじゃ)愛知県豊川市小坂井町宮脇2


”秦氏ゆかりの地”の第2弾は、愛知県である。

 

愛知県豊川市のJR飯田線と国道1号が交差する辺りから少し南に行った所に菟足神社(うたりじんじゃ)はある。

比較的こじんまりした境内ではあるが、綺麗に整備され、今でも人の手が入れられていることが良く分かる。また、豊川市教育委員会の解説板が複数立てられており、その歴史の古さが伺われた。 


当社に関わる伝説として以下のような解説がなされている。「菟足神社(うたりじんじゃ)と徐福伝説(じょふくでんせつ) 今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝(しこうてい)は、徐福から東方海上に蓬莱(ほうらい)など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからその後の徐福一行の動向はわかっていない。 ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられる。 一 熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。 ・ 豊橋市日色野町には、「秦氏の祖先は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」との言い伝えがある。 ・ 牛窪記(元禄十年(1697)頃成立)には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊(てまどのみなと)ヨリ徐氏古座侍郎(こざのじろう)泛舟(ふねをうかべ)、此国澳六本松(おきのろっぽんまつ)ト云浜ニ来ル。ー中略ー徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ・・・・・・」とある。 二 菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。


また、当「菟足神社」の解説には「式内 菟足神社(うたりじんじゃ) 御祭神 菟上足尼命(うなかみすくねのみこと) 創立 白鳳十五年(686) 穂の国(東三河の古名)の国造(くにのみやっこ)であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく当地に御遷座になった。 当社の大般若経五八五巻は、国の重要文化財に指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(一一七六、一一七九)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた。)なお応安三年(一三七〇)の銘のある梵鐘(昭和三九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河国名所図絵に出ている。 当社のお田祭の行事(昭和二九年県無形文化財指定)は、旧正月七日に行われる。 風祭として知られる例祭は、四月第二土曜・日曜日に行なわれ、打上花火、手筒花火は特に名高い。 また、祭礼の古面(五面)は昭和四〇年県文化財に指定されている。 豊川市教育委員会」と記されており、祭神の「菟上足尼命」は雄略天皇の治世に「国造」に任命されたようである。



古代渡来人”秦氏”ゆかりの地(京都府) [近畿]

2014年10月12日
2014年10月から2015年3月にかけて3回ほどこの”秦氏”ゆかりの地を巡って来たので、ここに記録する。


2014-10-12_0035.JPG広隆寺 京都府京都市右京区太秦蜂岡町32

太秦交差点の角にある”聖徳太子”を本尊とする寺で、開祖は”秦河勝”。正に秦氏の氏寺といえる。

創建時は住所にもある「蜂岡寺」と云ったようだが、その後「広隆寺」となっている。



2014-10-12_0031.JPG境内にある「太秦殿」に簡単な解説が書かれていた。「往古より秦氏を祭祀せる神社なり 本尊は秦河勝公 後に漢織女、呉織女を合祀す 天保十二年十二月再建す 百済国の弓月君百二十県の民を率いて帰化し其の子孫河勝に至りて地を山城北部に賜い葛野に居住し土地を開拓し、養蚕機織の業に従い之を奨励した。後人其の徳を讃へ神と崇め太秦明神と称した。」


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<木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)>京都府京都市右京区太秦森ケ東町50



2014-10-12_0043.JPG同社を訪れた10月12日は祭りの日に当たっていたようだ。神社の付近や境内には揃いの法被を着た人々が大勢いて、神輿も担がれていた。



2014-10-12_0039.JPG同社の”由緒(ゆいしょ)”については左の写真を参照戴きたいが、特に同社の主祭神四柱中「天之御中主神」を祀っていると書かれている。この「天之御中主神」を主祭神として祀っている神社は全国でも少ない貴重な神社と思われた。

2016-06-01_0079.jpg当社の目玉とも言える「蚕ノ社(かいこのやしろ)」は、上の「由緒」でも記載されているように本殿右側にあるとなっていた。「蚕養神社」が「蚕ノ社」である。(この写真は2016年6月1日に撮影)




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2016-06-01_0077.jpgまた”由緒”の最後三柱鳥居の項の最後に「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている」と書かれているが、写真のように普通の鳥居とは全く異なった形をしている。この神社最大の謎ともいえる。ケン・ジョセフ/シニア&ジュニア著「(隠された)十字架の国・日本」では「関西大学元教授 池田 栄氏の説として、”この三柱鳥居は、秦氏の信奉していた古代基督教の三位一体信仰の象徴であろう”と述べ」たとしている。本書では”秦氏”は「景教徒」であったとのスタンスで書かれているのである。(上の三柱鳥居の写真(右)は2016年6月1日に撮影)



※当記事は別ブログ「雑記帳」で2015年10月12日に記載したものを移動しました。 


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